IIIKのモデラー三昧なフロク

  ここはモデラーとしてのKのプログ… ではなくてフロクです。
  模型教室の運営とは関係なく、Kの個人的な雑記帳的コーナーです。
  このページは、自筆の小説『ドリフトウッド』を掲載しています。




        



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『ドリフトウッド』
− 漂木 −



    オーバーチュア(序章)


  アーバンデザイン。
  タウンウォッチング。
  そしてクラスター開発。
  聞き慣れないこれらの言葉も、都市計画におけるニュータウン構想と連なる用語だとわかれば、自ずとその意味が視えてくるかもしれない。

  ニュータウンとは、高度経済成長期の都市人口集中化による住居の需要に対して、職住近接をにらみつつ、環境の快適性を前提に計画され、その思想が血肉となった新都市のことだ。昭和50年代までに十全な計画づくりを無視して建設された矮小な住宅群の反省から、無秩序な居住地化をストップする意味合いもある。

  大阪では、千里丘陵がその代表のひとつである。
  その良好な環境を備えた宅地や住居を大規模な計画で進展させる都合上、住民への職場用地の提供ばかりでなく、大企業や広面積を要する大学を誘致するなど、複合的、副産的な要素ももち合わせている。

  ここ、千里ニュータウンは、昭和30年まで竹藪の緑地だった。
  その自然地帯も20年以上前から、大阪で最も地価高騰の激しい土地柄のひとつとなった。
  それは、密集して建てられた集団住宅に共有の広場や各種施設を設置するクラスター開発、そして都市全体の総合的で質の高い街づくりを目指すアーバンデザイン、タウンウォッチング―――
 つまり、街の考現学、などといった概念が、いかに人口過密のマーケットに適当であったかを物語っている。
  南は大阪市から、北は箕面市まで、一直線に走る交通を中心に、この北摂のひとつである千里丘陵は布切れに落とした染料が染み込むように、そしてある時は飛沫が飛び散るごとく、緑の色を灰(ひと)色に展げていった…。



  話は1994年初秋に遡る。
  「おれはこの街が好きなんだ。まずきみがいて、安っぽくないレストランがたくさんときれいな眺め、それに何となくこいつが似合うんだ。走らせてると」
  「この街って?」
  「ここからずっと下っていって、千里中央、桃山台、それに綾の家がある緑地公園、それに江坂まで。おれには全部ひっくるめてひとつの"街"なのさ」
  「何でそんなに千里が好きなのかわからない。でも、私だってこの"街"が嫌いじゃない。自分が育ったところだし…」

  時計の針は夜の8時を回った頃だ。
  二人は箕面今宮の交差点の傍にある「マッシュルーム」で夕食を済ませたところだ。そのイタリア料理店の駐車場で、クルマのエンジンが暖まるのを待っていた。
  短い鼻先、丸くて四角いと形容される外観。ホイールを四隅に配られているため思いのほか車内は広い。それが、このクルマの「スモール・アウトサイド、ビガー・インサイド(外観は小さく中は広い)」といわれる所以だ。

  近年の自動車には見いだすことがまったく難しくなった古くさいOHV式エンジンのアイドリング音を奏でているミニ・メイフェアのフロントウィンドウの中を覗くと、揃いのホワイトシャツとジーンズという格好の、褐色の肌をしたエキセントリックな凛々しい顔立ちをした男と、かたや滅多に出会うことがない白磁のように肌の色が白い女が、物静かげに口を動かしている。二人とも二十歳を過ぎた頃のようである。

  やがて、男の方がハンドルを抱え込むように顎を乗せたかと思うと、しばらくしてハンドルを握り、ルーフのみオフホワイトにペイントされたダークブルーの小さなクーペを動かしだした。希しくもシャーシの中央線上からそのままリヤへ向かって伸びた排気管から、その小さな外観とは不釣り合いなサウンドを響かせて、道路に躍り出る。

  しばらくは、非力なエンジンのために二速と三速のギヤを多目に使われながら、ボディカラーを夜の帳に馴染ませたミニ・メイフェアは、そのうち御堂筋の幹線道路に入った。
  近くに高級住宅地をいくつも構えているせいもあり、通り過ぎるクルマは高級な輸入車も少なくない。どちらかというと疾ばすには不向きなかわいい英国車のミニには、週末の日暮れからの御堂筋線の"フルスロットルが礼儀"といわんばかりのクルマ達がつくり出す奔流の中では、つねにおいていかれる身である。

  いくら切手大のアクセルペダルを踏み込んでも、二人のクルマのメーターは時速100キロまでなかなか到達しない。それどころか、時折姿をみせるスポーツカーの暴走に巻き込まれぬよう、頻繁にバックミラーの奧を伺いながら、ここでの糊口をしのがなければならない。
  だが、そんな心配も土曜と日曜の夜だけだ。ウイークデーはそんな心配も杞憂で終わってしまう。

  「あと一週間もすれば、学校が始まるわ…。こうして紳とメイフェアに乗っていられるのも、またしばらくお預けね」
  もて余す栗色の長い髪を、両の耳にかけた美しい娘がいった。
  「ああ、でもいつでも会いに行くよ。こいつに乗って」
  と、男がいう。

  小型の、それでも排気量1,000ccのミニ・メイフェアを運転している身堂紳も、パッセンジャーシートに丸い膝を行儀よく合わせて座っている村川綾も学生同士だ。大学も学部も違いこそすれ、この夏の終わりとともに後期の授業が始まることに変わりはない。

  紳が、街頭の似顔絵描きを2年やった金で買ったミニ・メイフェアの助手席に、村川綾を座らせるようになって半年が経とうとしていた。大学が夏休みに入って、二人で時間を共有できたのも、そろそろ終りが近づいてきた。綾が約2ヵ月の間留守にしていた大阪の南部にある大学の女子寮へと戻らねばならないからだ。
  絶対的な距離としてはさほど遠いわけではないが、現在のようにちょくちょく会えるというわけにはいかなくなってしまう。再び二人が出会った頃の一種もどかしい緩慢な待つ日々を送らなければならない。
  思わず口に出てしまった彼女の言葉が、若い二人の会話を跡切らせてしまった。高速で走行しているので、回転し過ぎのエンジン音とけっして空気抵抗のよくないミニのボディが風を切る音が、二人の代わりに車内で雑談を交わしていた。

  「ねえ、大学卒業したらどうするの、何になりたい?」と綾がいった。
  「どうした、急に」
  「だってもう私達3回生だし。来年に入ったら就職活動をしなきゃ」
  「うーん、イメージわかないな。好きな絵描きにでもなるかな」
  紳は恣意を口に出した。
  「だめよ、それじゃ食べていけない!せっかく教職とってるんだから、学校の先生にでもなればいいのよ」
  綾は、彼が軽く口にした言葉を否定し、自分の希望を述べた。
  「それじゃ、綾は何になるんだよ」
  「えっ、私は…」

  彼女はなぜか気まずそうに俯き、口ごもってしまった。
 その後、口から出任せのような言葉を口にした。
 「好きなギター弾きにでも、なろうかな」
  「ほら! 人のこと棚に上げておいて、綾だって決まってないんだろ」
  紳は、彼女が口ごもってしまった理由を深く考えずに、話を切り上げてしまった。
  「少し、疾ばすか」

  彼はそういって、四速から三速へギヤをシフトダウンし、アクセルを床に踏みつけた。
  「スポーツカーもいいけど、やっぱりおれにはこいつが合ってる。綾にもね。二人で乗るならメイフェアしかないよ。気分次第でスポーツカーにもなるしね。軽自動車にもおいてかれちゃうし、馬力もないけど、このミニっていうクルマは一生懸命がんばって走るクルマなんだ。それに、こいつはシンプルだからいいんだ。おれ達もシンプルに生きよう。別に人より優れているところなんてなくてもいんじゃないのかな。今、自分が持っている能力をきちんと出していれば」
  紳は瞳を前方に向けながら、そして毅然と話した。
  普段は無口な方だが、時折達弁なところを垣間見せる。

  それに綾は、コクッと頷いた。その仕草は紳に見える筈もないのだが、彼女はそれでも、心の中で「そうね」といっているのを彼が理解してくれていると感じている。
  口紅を差しているわけでもないのに、綾の林檎のように紅く小鼻のほどしかない小さな唇が幸せそうに和らいでいる。彼女は何かに拘っている彼が好きなのだ。そして彼が、自分という女に誰よりも拘ってくれていると信じている。クルマは、この小さなクーペだが、女は自分だと信じている。紳のこのクルマに対する愛情の注ぎ方を見ていると、好きな女性に対する接し方も自ずと想像がつくというものだ。
  21という年齢はけっして初心であるとはいえないものだが、綾は紳とはつねに新鮮な気持ちを分かち合いたいと思っていた。
  愉しい時ほど、日進月歩の勢いで過ぎ去っていく。
  それを見過ごさないで、一日一日を何かで一杯に詰まったものにしたかった。それには、彼が必要だった。
  ただ、二人で共有できるこの時間を扼腕するほど惜しんでいるほか、彼女には何一つ欲しいものはなかった。満たされているのだ。そんなことを考えていると、いつしか自分の顔に微笑みが浮かんでいるのに気がついていた。

  「何かいいことでもあったの?」
  と紳が訊いた。敏感なのだ。
  「ううん、別に」
  彼女は頭を横に振る。内緒なのだ。
    「ふうん…」
  釈然としないといいたげに、紳は口を尖らせた。
  透明感の塊のような彼女が微笑む時はいつもこうなのだ。自分が何かに熱中していると、隣にいる美しい女の顔は必ずといっていいほど、そんな表情をしている。そして、理由を訊いてもごまかして逃げるのだ。彼は、いつも「ふうん」と渋々いうしかないのだ。
  だが、その理由は想像できた。きっと自分と一緒なのだろうと。

  その日も、ミニ・メイフェアのフロントウィンドウは、映画のスクリーンだった。
  夜陰に鮮やかに灯る光のオブジェ達。オプティカル・ハイウェイが奔り、蠢く。
  そして、夜の上には、真円の月だけが青白く灯っている。
  隣には、美しい少年が醇美さを秘めた青年へと移り変わる過渡期にいる人がいる。
  そんな中、村川綾はこう考えた。
  彼の拘りは、愛するという言葉と置き換えられるのだと。
  明るい夜だ。
  街は流れる。
  高架道路の脇に生えた雑草が、無数のクルマ達が残していく風に、誰にも知られずに揺れていた。





      





インターネット小説 『ドリフトウッド』1話




       器用な絵描き



  話は1999年に移る。

  ターンタタターンターン タターンターンターン。
  複雑なリズムを快調に流すような16ビートのギターの音色が聞こえてきた。
  心地よく、懐かしさを感じさせる音色だ。音が聞こえてくる先にわずかだが、人だかりができている。

  何だろう、護はそう思った。一緒に歩いていた有理と近寄ってみる。
  11月も半ばに入った頃だ。ここのところ三寒四温の日が続き、本格的な冬の到来を予感させる。
  学校帰りの夕暮れ時を過ぎ、陽はもう落ちている。
  帰宅部の護にとっては、放課後になってから、この有理にありがたくもない授業の補足を受けたため、帰路に就くのが遅くなってしまっていたのだ。

  ―――まったく、進学校でもないのに。
  いつもながら、護は迷惑そうに心の中で呟いていた。
  その上、彼女の買い物にまで付き合わされる顛末だ。いくら幼なじみとはいえ、生理用品を買いについて行かされるようではたまったものではない、と護は感じていた。しかし、他にやることがあるわけでもなく、つい自分の行動指針について、幼い頃から彼女にリーダーショップを取られてしまうのだった。

  彼らは、通っている千里山高校から、通学路となる駅前の商店街で買い物を済ませたところだった。普段あまり通ることもない大通りでの出来事だった。

  「結局あの娘たち、護としゃべりたいくせに、私に嫉妬してるのよね」。
  男子ながら、まるで天使のような容姿をした護は、クラスメートから羨望を受けると同時に、近寄りがたさを与えているのだった。その点、幼なじみの有理は免疫ができている。いつものおしゃべりな調子で、護に一方的に話かけることができる。
  その有理でさえ、口が達者なことを除けば、たぐいまれな繊細な雰囲気をもった美少女である。二人がペアで歩いている時は、ちょっとしたスナップ写真が撮れるかもしれない。

  有理の言葉を護は聞いていない。その視線の先にあるものを見ていた。
  誰かがフォークギターを弾いている。
  「ああ、よくいる弾き語りか」最初はそう思った。しばらく聞いていると、唄ってはいない。ずっとギターの音色だけが聞こえてくる。じっと聞いていると、かなり複雑なメロディーとリズムを弾いていることがわかった。両手の指の動かし方が巧みで素早い。
  「うまいわね。どうやったらあんなに指が動くのかしら」
  ピアノを小学4年生で断念した有理が感心したようにいう。
  確かにうまい。護もそう思った。

  大気は、吐く息が白くなるほど冷えてきたが、時間を忘れていつまでも聞いていたいと思う弦楽器が奏でる特有の音色だった。自分達と同じように聞き入っているわずかな人に囲まれ輪になったそこは、オレンジ色の小さな照明器具のみに照らされた光と陰を生みだし、暖かささえ感じられる。

  輪の中心には、小さな木でできた椅子に腰掛け、伏し目がちにギターを弾く男がいるだけだ。黒くふわりと緩やかなウェーブのかかった髪は、少し無精な感じがした。
  しばらく二人で聞き入っていると、数分ごとに違う曲を弾き続けているようだった。護は、その男が自分をチラリと見たような気がした。やがてその男が演奏を止めると、人だかりも失せていった。護はなぜか呆然と立ったままだったので、有理はそれに従い、ひっついて二人は居残っていた。

  その男は、今まで弾いていたギターをスタンドに立てると、スケッチブックを取りだした。
  「そこのきみたち」
  その男は少し微笑んでしゃべりかけてきた。同時に涼しげな眼差しが護達に向けられる。
  「よかったら一枚どうかな。似顔絵なんだけど」
  と、スケッチブックと鉛筆を挙げ、手でひらつかせてみせる。

  「えっ」と有理が反応し、護にどうしようかという表情を向ける。
  「大丈夫、お金はいらないから。今日は客がこなくてね、ヒマなんだ」
  男の不審さを感じさせない表情から、有理は似顔絵を頼むことにした。初体験だった。用意された小さな椅子にちょこんと腰掛ける。

  慣れた手つきで自分の似顔絵を描く男の仕草を、有理はまじまじと観察した。よれたシャツにゆったりとしたスラックスを履いている。伸びた黒髪に隠れた顔をよく見ると、涼しげな目をしたクールな二枚目風で、無精髭が口と顎を覆っていた。どことなく陰があるが、声が優しいせいか落ち着いた雰囲気がある。歳の頃は27、8といったところだろうか。やや中性的な美少年の護と比べると、凛々しい顔立ちをした男性的な美形であった。

  男は鉛筆だけを使い、10分ちょっとをかけて有理の似顔絵を書き上げた。
  「はい。きみはやさしい顔をしているね」
  「ありがとう」
  有理は自分の顔がどんな風に描かれたのか心配そうに画用紙を確かめ、そしてこういった。
  「あなたの絵、とても本物に忠実だわ。気に入ったからお金を払うわ」
  「お金は要らない。二割増しで描いたしね。ははは」
  男は、冗談混じりにいう。
  「まあ!」
  有理はいっぺんに払う気をなくしてしまう。

  似顔絵が終わるのをずっと待っていた護が、二人の会話を遮った。
  「あの… さっき弾いていた曲、もう一度聴かせてくれませんか。あのターンタタターンタンっていうやつを」
  男は黙って再びギターを弾いてみせた。その演奏している仕草はまったく気持ちよさそうだった。護は曲を聴きながら、男の器用に動く手を見つめていた。
  一曲弾き終わると、男は護に尋ねた。
  「ギターが好きかい?」
  「いえ、その、手の動きが鮮やかなものだから」
  「たいしたことない。自己満足で弾いてるようなもんさ。似顔絵の客寄せ、に、ね」
  男は余裕をもった態度でそういいながら、なぜかその目は鋭く護の手を観ていた。その後、護には男が一瞬にやりと微笑んだかのように見えた。



  それから、護がその男と会ったのは10日ほど過ぎてからだった。偶然、街中を歩いているのを見かけたのだ。この前に一緒に見た、似顔絵用の画材一式とギターケースはもっていなかった。買い物だろうか。
  護はふと魔がさした気がした。なぜか、その男の後をつけたい衝動にかられたのだ。
  ―――まったく。ストーカーじゃあるまいし。
  と、我ながら呟く。

  冷たい北風が吹く中、10分ほどこっそり後をつけていくと、男は一軒の古い家の前で足を止めた。自宅なのだろうか、すんなりとその家に入っていく。その家のガレージには、紺色のボディカラーがやや色褪せた小さな車があった。
  ここで護は、探偵ごっこを終える他なかった。
  その時だった。
  「どうした帰るのか」
  声を背後から掛けられた。護はびっくりして振り向く。その男は護の尾行に気がついていたのだった。
  男は、別に気分を害したり、敵意を示している風でもなく、親しい口調で話かけた。
  「まあ、あがっていけよ」

  護は何を迷うわけでもなく、その男の家に入ることにした。16才になったばかりの男として、冒険心がそうさせたのだろう。表札には、村川とあった。
  家の中は明かりひとつなく、シーンとしていた。少なくとも、誰も住んでいない。生活の臭いが感じられないのだ。木造建ての古い家だけが醸しだす、わずかな木の臭いと懐かしさだけが充満していた。木張りの廊下を歩くとミシミシと小さな音がした。畳敷きの居間に案内されると、さらに静けさが伝わってきた。ずっと家族と一緒暮らしてきた護には、あまり経験のない一軒家の静けさだ。

  「ちょうどおれも、きみに相談があったんだ」
  そういって、冷蔵庫から取ってきた缶ジュースを差しだす。護は、どちらかというと暖かいコーヒーがほしかった。
  「相談?」
  「そうだ。ギターに興味はあるか」
  とくにない、と護は応えた。それに対して直ぐさま、そうだろうなという返事が返ってきた。

  「きみにギターを弾いてほしい」
  男は率直にいった。
  「おれの目に狂いがなければ、きみには素質がある」
  「ギターなんか弾いたこともないです。できませんよ」
  「もってみろよ」
  そういって、男はスタンドに掛けてあったギターを手渡す。

  「これから夜中だったらいつでも来てくれ。おれが教える」
  半ば強引ないい方ではあったが、なぜか憎めない雰囲気を男はもっていた。それに護は、本心はまんざら興味がないわけでもなかった。先日この男の演奏技術はかなりの印象があったからだ。自分も同じように弾けたらいいなと、実はあの日からそう思い続けていた。
  「でもどうして…」
  「いつか話す」
  男はそれだけいった。







      







インターネット小説 『ドリフト・ウッド』2話



       魂を失った女



  いつしか護は、その男についてギターの練習を始めていた。

  一週間はまるで弾けなかったが、二週間目からはきれいな和音をだせるようになった。
  そして、1ヵ月もすると、かなり指が思い通りのポジションに押さえられるようになった。
  「おまえには素質がある」
  と、男は護に教えながら口癖のようにいうのだった。

  男の名前は身堂紳といい、職業は中学校で英語科の教員をしているということだった。護は中学校の先生のイメージがまったく沸かなかったが、どことなくティーンエイジャーの扱いに馴れているところは否めなかった。
  「いいか。きみが目指すのはギタリストだ。弾き語りはしない。あくまでギターの音色だけで人を感動させるテクニックを身につけるんだ」
  と、身堂はいった。
  彼の教え方は護にとって完璧といえるものだった。まったく音楽や楽器の知識のない護にもすべて理解できるように懇切丁寧に教えてくれた。

  さらに1ヵ月が過ぎた頃、護は完全にギターの虜になっていた。
  「五年落ちのお古だが、そいつをやるよ。ギターは古いほどいい音がでるんだぜ」
  そういって手渡されたフォークギターは、かなり使い込んだものと見えて、指板のあちこちがうまい具合に色褪せていた。

  そしてとある土曜日、護は身堂について、いつもの緑地公園近くの場所で街頭の似顔絵描きにつきあわされた。身堂が似顔絵を描いている時も描いていない時も、人に聴いてもらえるようにギターを弾いていろといわれる。

  「人にうまく聴かせる演奏のテクは、楽器を単調に弾かないことだ。音の強弱、つまり曲のパートごとに音量にメリハリをはっきりつけて弾けばいい。歌と一緒で、楽器にも腹式呼吸をさせるんだ。コードは、ルート音がはっきり聴こえるように弾け」
  やがて人が集まってきたが、護はさして緊張しなかった。むしろ自分が奏でるギターの音色を集まってきた人達に聴いてほしいと思った。そう思うと、護のギターの音色はいっそう深みをまし、柔らかく抑揚のある音を奏で続けた。

  「ギターに触って2ヵ月でこれだ。綾、もうすぐ魂を呼び戻せるかもしれない…」
  護がギターを弾くすぐ横で、身堂はニヤリとそう呟いていた。


  それから、また1ヵ月が経ち、さらに護の腕は上達した。身堂から教わったギター曲のレパートリーはほとんどコピーしてしまった。街頭で身堂とデュオをやれば、チップだけでもいい稼ぎになった。 護が身堂と一緒に街頭に出てわかったことだが、身堂はこの近辺では、その腕前を知られたギタリストらしかった。
  街頭でのプレイを聴きにやってくる人々の中には、彼のことを「バッスルホールのギター弾き」や「フィラデルフィアのギタリスト」というニックネームで呼ぶ人間がときおりいた。バッスルホールやフィラデルフィアというのは、いずれも緑地公園駅の近くにあるアルコールが飲めるナイトスポットだ。

  それについて護が身堂に尋ねると、「昔ならしたことがある」とだけ彼は答えた。
  何でも人の話では、これらの店において過去に行なわれたギター演奏のバトルで、身堂は無敗の記録をもっているらしかった。

  身堂が特技をもっているのはそれだけではなかった。当然、似顔絵描きの方も、本人曰く「サラリーだけでは食べていけないのでな」といいきり、充分な稼ぎを得るほどの技術をもっていた。本人の話では、音楽より絵画の方がまだ才能があるらしい。

  そんな身堂にして"営業中"は若い女性がよく訪れた。中には、毎週のように似顔絵を描いてもらいに来る彼のファンらしき若い女性が何人かいた。しかし、当の本人はまったく意に介さず、男女問わず必要以上のコミュニケーションをとらない無口な男だった。
  そんな身堂を見て、学校のクラスで同じような境遇を味わっている護としては、不思議な共感とともに信頼するに値する、好ましい人間に思えるのだった。


  その日の晩、護は久しぶりに身堂の家に上がった。
  相変わらず、しんと静まり返った、誰一人いない家のはずだった。いつもと違っていた。
  護たちのいる座敷に、かすかな女の声らしきものが聞こえてきた。
  身堂はさっと身を起こし、部屋のドアの方へ目を向けるとを、ドアの向こうに物静かげな女性が立っていた。

  「綾!」
  身堂の口から声がもれた。しかし、寝巻姿のその女性は振り向きもしない。身堂の声とは関係なく、ワンテンポ遅れてゆっくりと護にぼやけた視線を向ける。
  護は、驚いたこともあるが、何よりその女性に生気がないのが気になった。瞳は焦点があっておらず、輝きがない。意志を持たない者の眼である。パジャマ姿であるところをみると、2階のどこかの部屋で横になっていたに違いない。どうやら、以前から身堂と一緒に暮らしていたらしい。今まで自分はずっと気づかずにいたのだ。

  「いつか話そうと思っていた」
  と身堂がきりだした。
  「名前は村川綾。この5年、ずっと一緒に暮らしている。この家は彼女の家族のものだ。今は両親が亡くなって、おれ達だけで住んでいる」
  護は黙って身堂のいうことを聞いていた。

  「母親は綾が幼い頃になくなったそうだが、父親はおれたちが知り合ってしばらくした頃、つまり5年前に亡くなった。幸せそうな親子だったが、急な父親の死をきっかけに、何もかも変わってしまった。どうやら、綾の魂は父親が亡くなる時、連れていってしまったらしい。いや、これは彼女自信の願望なのかもしれない。天涯孤独には、なりたくないと」
  「そんな・・・」
  「イーバーベルディゲ・イデー。医学用語でいうところの、優格観念といわれる症状らしい。記憶喪失のようなものではなく、どうやら本人の防衛本能というか、意志で心を閉ざしているらしい。ショックを受けた時点から、外的な刺激に反応できなくなる。もともとの精神病者と違って、強い精神的ショックで引き起こされたものだから、その原因を取り除ければよくなると医者はいうんだが…。父親や母親を生き返らせることなんてできないしな」

  普段は無口なはずの身堂が、ギターや英語を教えてもらう以外でこんなにしゃべるのは珍しいことだった。彼なりに鬱憤が溜まっているのだろうと護には感じられた。
  身堂の話はまだ続いた。

  「このままでは寝たきりの人間と変わらない。一日中家の中にいて、生きている喜びなどない。綾の魂をここに呼び戻す! それがおれの望みのすべてだ」
  身堂は、その女性を護のいる座敷に引き寄せてきた。ゆっくりと座椅子に座らせる。すると、彼女は力なげに座椅子の背にもたれかかった。

  護のすぐそばに座ったその女性は、それでも女神のような清らかな美しさをもっていた。真っ白な肌と栗色の真っ直ぐな長い髪が、彼女がもつ透明感を強調させていた。小さな卵形の顔には、憂いを秘めた瞳と、紅く厚みのある小さな唇が収まっていた。
  護は、これほど無垢な印象をもつ人間を知らなかった。あるいは、彼女が自我による意識を失っていることが、かえってそうさせているのかもしれなかった。

  護は何か喉が渇いたような気がして、ごくっと唾を飲み込んだ。
  緊張に耐えきれず、口から言葉がもれた。
  「でも、どうやってこの人の魂を呼び戻すんですか?」
  身堂はすぐ言葉を返した。
  「方法はある。綾が以前もっとも意識を傾けていたもので呼びかけてやればいい。ギターだ」
  「ギター?」
  護はわからず、オウム返しをした。
  「おれがギターを弾くようになったのは、綾がこうなってからだ。彼女に会うまではきみと同じで、まったく弾けなかった。綾は小さな頃から母親にギターをたたき込まれていたらしい。そんじょそこらのスタジオミュージシャンなど、足下にも及ばないほどの演奏テクニックと曲のレパートリーをもっていた」

  身堂はタバコに火を付け、彼女を見ながら話を続けた。
  「綾が心を閉ざしてから、三ヵ月もした頃だろうか、一切のものについて興味を示さないと思っていたが、そうでもなかった。たまたま、この家にあるギターを片付けようと弦に触れた時だった。音が鳴った瞬間、綾の視線がギターの方に向いたんだ。わずかだが、ギターの音色には反応するんだ」


  「おれがギターを弾き始めたのはそれからだ」
  こういった身堂の言葉を思いだしながら、護は帰路についていた。
  路地裏の街頭に頬を照らされながら、とぼとぼと凍てついた空気が漂う夜道を一人歩き、身堂と綾の人生について考えていた。
  魂の抜け殻になった女と、その女の心を呼び戻そうとする男。今思えば、身堂のストイックでどこか陰りのある性格もこれで納得がいく。

  身堂は、綾が以前によく弾いていた曲ほど、彼女の反応が大きいといっていた。
  しかし、その曲は綾の亡くなった母親が作曲したオリジナルであり、楽譜そのものが存在しなかった。それを身堂は、以前綾がよく弾いていたメロディーの記憶を辿り、手探りで中途半端にコピーしているのだった。どれも演奏は難しく、身堂は何年かかっても彼女のように弾くことができないといっていた。
  それは、今では"ロストテクニック(失われた技巧)"と位置づけられ、複雑な和音のアルペジオなどを駆使することを前提に作られた曲ばかりだったからだ。昔は綾や彼女の母のように、そうしたギター楽曲をスムーズに弾けるギタリストが多くいたが、今では音楽の流行が移り変わり、そうした曲がギターで演奏される機会が極端に減っているせいもある。まさしく、失われた技巧なのだ。

  それで身堂は、自分の演奏技術を研鑽するとともに、自分より才能のある人間を見つけて、かつて綾が弾いていた曲を弾いてもらうことを考えたといった。それが道ばたで絵描きを続けている理由のひとつであったことも、護にギターを教えた目的であることも話した。

  ―――無理だ!
  護は急に駆けだした。晩秋の冷たい夜風が頬に突き当たる。それでも、走るのを止めなかった。

  ―――無理だ。弾けっこない。
  身堂が5年やってだめだったものを、どうして自分ができるのだろう。身堂の技術に追いつくのに、あと何年かかるのだ。さらにその上のテクニックを身に付けるとなると、まるで実現性のない話だ。 できるなら、身堂の切なる願いを叶えてやりたい。彼女の魂を呼び戻してやりたい。しかし、自分は何の力にもなれない。
  そのやるせなさを感じながら、護は冬の夜の闇を駆けていた。



  それから数日経った学校が休みの日、護は綾のことが気になって、再び身堂と彼女が住んでいる家を訪ねることにした。
  今回は初めて、幼なじみの有理を同行させた。というのも、どうすればいいか、つねに護のオピニオンリーダーとしての地位を保ってきた幼なじみの彼女の意見を聞いてみたかったからだ。

  村川宅に着くと、ガレージに身堂がいた。例のダークブルーの小さな車のボンネットを開けて、何やらエンジンルームを覗き込んでいた。護はその車を見るといつも、その二つの丸いヘッドライトが自分に何かを語りかけているような気がしてならなかった。
  熱心に何かの作業をしている身堂に声をかけるのに気がひけて、護はしばらく黙っていた。しかし、勘のいい身堂はすぐ後を振り向いた。

  「こんにちは、身堂さん。ひさしぶりです」
  護が声を出す前に、隣にいた有理が喋った。彼女も似顔絵を描いてもらって以来、身堂には一目おいているのだった。
  いつものジーンズによれたシャツを着た身堂は、ほどよく二人を家の中に迎え入れた。
  護と有理、そして身堂と綾の四人が、いつもの座敷でテーブルを囲んだところで話が始まった。

  最初に口火を切ったのは、やはり遠慮を知らない美少女の有理だった。
  「綾さんてすごくきれい。なんていうか憂いがあって、大人だけど、歳をとらない人って感じ」
  口うるさいはずの有理は、どうやら綾のことが気に入ったようだ。美人度という点でも、プライドの高いはずの有理は綾にシャッポを脱いでしまったようだった。
  そしてその後、綾の話が進んでいく中、10分もしないうちに有理は泣きだしてしまった。魂の抜け殻のような綾が不憫になったのだろう。喜怒哀楽が激しいのが有理の特徴だった。

  「でも、どうしてぼくにギターを弾く才能があると思ったんですか」と、護は話を変えて身堂に尋ねた。
  「手だよ」
  「手?」と、護が怪訝に聞き直す。
  「ああ、細長い指をしたその手が、綾とそっくりの造りだったのが理由だ。あとは、直感だ。意外とおれのカンは当たるんだ」
  身堂はあっけらかんといった。無責任な意見だが、誰がギターをうまく弾けるかなど、見た目で確証が得られる方法などあるわけではない。

  「なぜ、プロのミュージシャンに頼まなかったんですか?」
  「試しに弾いてもらったことはあるが、だめだったんだ。綾はまるで反応しなかったんだ。結局、譜面を見てインスタントに弾いただけの、ソウルのこもっていない演奏では、テレビと同じ音なのさ。どういったらいいのか、ヘタでも感情豊かな音の方が綾は耳を傾けるんだ。
  そんなこともあって、綾のことを知っていて、本心から彼女の回復を願っている人が弾いてこそ、目的は達せられる。そんな気がするんだ。そして、最大の問題はこの曲を最後まで弾けないことだ。どうしても後半の部分のメロディーが思いだせない…」
  そう話す身堂は一遍の曇りもない澄んだ目をしていて、一瞬、理想主義者のように護の目には映った。

  「久しぶりに試してみるか」
  そういった身堂の目つきが、ギターをもった瞬間変わった。
  「この曲は、前に綾が一番よく弾いていた曲なんだ。曲名は知らない」
  身堂の顔つきが変わり、プレイが始まった。左手でトニックコードを押さえ、小指を除く右手の指四本で最初の音をつま弾いた瞬間、綾の視線がぼんやりとギターに向いた。演奏が続くにつれて、彼女の瞳に意識の光が宿っていくように見える。

  確かに曲に反応している。この一瞬だけを区切れば、一人の女性が気持ちよさそうにギターの音色に身を傾けているようにも見える。長い睫がけぶるその瞳は、懐かしそうとも、悲しそうともとれる表情をしていた。
  複雑なコード進行に加えて、変則的なアルペジオの連続。これを絶妙のリズム感を保ちながら、音量に抑揚をつけて完全に弾けるようになるまで、身堂の技術は至っていない。自己のベストを尽くして弾いている今も、以前綾に聴かせてもらった演奏と比べるとあまりの陳腐さにギターをほおりだしたくなるのだった。
  じっと注意深く見ていないとわからないが、護や有理にも、確かに綾の瞳の奧には知性の光が燻り、演奏に応じてその光がわずかに輝きを増しているように見えた。

  「なんとなくわかったわ。確かに綾さんの意識が帰ってきそうな感じがする。なんだか、忘れかけていた言葉が喉まで出かかっている時みたいにもどかしい。なんとかならないのかな...」
  と寂しそうに有理がいった。

  「しかし、これ以上のことはできない」
  いつもながら隔靴掻痒とすることに飽きてしまった身堂は、たった一曲を途中まで弾いただけなのに、若干の疲れを見せていた。彼には珍しいことだ。
  「ある意味、記憶喪失よりやっかいですね。記憶喪失なら、何かをきっかけに記憶が戻ることもあり得そうなのに」
  護は残念そうにいう。
  「そうだな。何かをきっかけに、か」身堂は力なく言葉を返した。「綾の場合、外界への意識をシャットアウトしているから、何も通じないしな」
  「綾さん本人の力で元に戻ることはないのかしら」
  有理が呟く。

  「もう、5年も経っているんだ…。こんなに月日が経ってしまうと、このままもう元に戻らないんじゃないかって。だんだんそう思い込みはじめている自分がいて怖いんだ。」
  彼らの会話の横で、村川綾は仮面のような無表情でただ座り込んでいた。彼らの話を聞いているそぶりもない。無表情な顔が空を見ているだけだ。

  その姿を見ているだけで、身堂は胸が痛くなるのだった。何とか元にもどってほしい。それを切望し続けて、あっという間に5年が過ぎていた。大学を卒業して、中学校の教員になり、仕事が忙しかったせいもある。また、薄給で綾の世話をしつつこの家を維持しなければならなかった。思えば、心に余裕のある時間は、街頭にでて絵描きをしている時だけだった気がする。

  「ねえ、突拍子もない話だけど」
  と、有理が切りだした。この美少女は、誰も考えつかないようなアイデアを沸かせ、いつも護を困らせている。
  「深層意識には本当の綾さんがいるはずでしょ。そこに接触すればいいのよ。催眠術とか、だめかしら」
  「催眠術にはかからないんじゃないかな」
  と、護がきびすを返した。
  「それも実は試してもらったことがあるんだ。護のいう通りまったくきかなかった。食事のほかは、起きているだけか寝ているだけだからな」
  身堂はあきらめ口調でいった。


  この日は結局、話に明け暮れ、翌日が日曜日ということもあって、護と有理は、身堂たちが住んでいるこの家に泊まることになった。
  身堂は、気をきかせて護の家へ断りの電話を入れる。以前にもこの家に泊まったことがあるので、さして護の両親に問題視されなかった。懸案の有理はタイミングよく、両親が旅行中ということだった。
  「まあ、家に電話は入ってるでしょうね。この家の電話かりてもいい? ここから掛けておけば大丈夫よ」
  と、当の有理はあっけらかんという。


  12時を過ぎ、深夜になってから、それぞれ寝床に入る。
  護と身堂は同じ1階の座敷で、有理は綾の部屋でそれぞれ眠ることになった。
  有理は、不思議な感覚に包まれていた。
  部屋の明かりを消して布団の上に横になっても、側にいる綾は一向に目を閉じようとしなかった。その薄茶色の瞳は焦点があっておらず、意志の光を宿さないまま、いつまでも空を見ている。そんな綾をじっと見ていると、有理はいつの間にか小1時間が経過していることに気づいた。
  照明の類はすべて消灯しているが、煌々とした月の光だけでもかなり明るかった。窓の外では、満月に近い円を描いた蒼白い月がこちらを向いていた。

  窓から入る月の灯は、綾のすらりとした線でつくられた鼻梁の稜線の影を、その頬に美しく落としていた。
  塑像のように動かず、意志をもたない綾に対する恐怖なかった。むしろ、やり場のない怒りにも似た悲しみが、有理の心の奥底から奔流のように湧きでてくるのだった。有理は、熱をもった涙がその瞳から溢れ、自分の顔を濡らしているのがわかった。

  やがて、彼女は眠りにつくことにした。
  「この人を、必ず元にもどしてみせる」
  そう誓ってから、やや冷たい綾の手をしっかりと握り、瞳を閉じた…。





       






インターネット小説 『ドリフト・ウッド』3話



       原風景



  意識が朦朧としている。
  ふと、気がつくと、彼女の周りには深い霧が立ちこめていた。

  ―――どこだろう、ここは。

  有理は辺り一面、濃厚な霧が漂う知らない場所に一人佇んでいた。
  片腕をすっと前にさしのべてみると、質量をもったような濃い霧のため、手の先が視えなくなってしまう。まるで雲の中に来たようだった。

  すると、次第に霧が晴れてくるのだった。うっすらと、世界が彼女の前に現れてきた。気温は暑くも寒くもない。

  彼女は丘の上に立っていた。
  視界にあるすべてのものが、自分より下に見える。
  しかし、見えるものは生気を失ったようなくすんだ緑に覆われた大地だけだった。霧がある一定の濃度になると晴れるのを止めたせいで、ぼんやりとしか周囲も遠方も見渡せない。物音ひとつ聞こえず、時計をもっていないので、時刻は昼とも夜とも見当がつかない。ただ、わずかな光がガスに反射されているせいか、周囲はぼんやりと明るい。

  次に気がついたのは、自分の足下から、前方へと果てしなく伸びている大きな道だった。それも非常に幅広いアスファルトの道路である。それは、誇り高く、威厳があるようにそこにあり、まるで有理に先へ進めといわんばかりに存在していた。

  ―――自分は確か、村川綾の部屋で彼女と一緒に眠ったはずだ。

  しかし、服装さえ、通学時のグレーのブレザーとスカートの姿になっている。
  「ここにいても、始まらないしな」
  彼女はそう呟き、丘を緩やかに下っている道を歩いていくことにした。
  幅にして30メートル以上はあろうかという大きな道路にもかかわらず、自動車どころか人っ子一人でくわさないので、有理は道の中央を歩いた。ガスがかかった大気に、道路の両脇に規則正しい間隔で佇立し、上の方にいくほどカーブがきつくなった背の高い照明灯の明かりが、ぼんやりと辺りを照らし続けていた。

  丘の上から緑に見えていたのは、鬱蒼と繁った果てしのない竹林だった。それが道路の両脇に沿って延々とはるか彼方まで続いており、他には何も見当たらない。
  彼女は、あらためて世界を眺めてみると、色調がないことに気がついた。しかし、完全なモノクロームというのではなく、目に映るすべてのものがセピアを基調にしたものになっていた。
  30分も歩いた頃、有理の頭の中に、どこまで歩けばいいのだろうかという不安が生じ始めた。こんなところで夜になったら、たまったものではない。自分はか弱い女子高生なのだ。

  すると左手に明かりが灯り、一軒の店が現れた。その認識はあまりに唐突だったので、有理には、まるで自分がこの場に来た後に、その店が出現したかのように錯覚した。
  店に近づくと、そこは「ハーフペーパームーン」という看板の開け放しのショットバーだった。

  「あっ」という言葉にもならない声が、有理の口からもれた。
  ―――私はこのお店を知っている。自分が住んでいるマンションから少し離れた大きな道路沿いにあった店だった。
  その店は1階にあるため、外からも内部がよく見える造りになっていた。有理は未成年故に入ったことはないが、大人になったら護といこうと決めていたスポットだった。残念なことにこの店は、不景気のせいか1年前になくなり、現在はコンビニエンスストアに様変わりしていたはずである。
  気がつくとまた、異変が起きていた。その店の向かって左横に小道ができているのだ。さっきは明らかになかった。いや、なかったと彼女は思う。これまで歩いてきた大きな道に対して小道は左手側へ直角方向に、やや登り坂になって伸びており、100メートル先で右にカーブして見えなくなっていた。
  彼女はこの道にも見覚えがあった。自分が知っている、ハーフペーパームーンの横にある道とまったく同じレイアウトになっているからだ。

  「すると今まで歩いてきた道路はシンミ!」
  有理は叫んだ。
  シンミというのは長い単語を三文字に略すことが好きな大阪人がいうところの、新御堂筋線と呼ばれる国道423号線のことである。大阪北部を南は大阪市から、北は箕面市まで南北に伸びた幹線道路だ。

  この時になって彼女は、これが夢の中らしいということに初めて気づいた。そういえば、新御堂筋線の千里丘陵に沿って、わずかに曲がったカーブや坂の具合がまったくそっくりであった。確かに自分が知っている世界から、人工の建物などを取っ払えば、このような景色になると彼女は感じ取った。

  ―――じゃあ、この坂道を登っていけば…。
  その思惑のあとに続くものは、身堂たちが住む家の存在だった。現在、有理がいる場所から400メートルも進めば、そこにたどり着くはずである。そして、有理の家族が住むマンションも、護の家も1キロメートル以内の距離にある。
  躊躇しながらも、有理はその脇道に入っていくことにした。

  歩き出してしばらくしてから、もしやと思い、後ろを振り向くと、もう来た道は消えてしまっていた。
  どうやら選択の余地はなく、後には戻れないらしい。彼女は真剣に、夜になるとまずいと感じ始めた。こんな竹藪ばかりの中で、暗闇になっては恐怖に耐えられそうにもない。あるかどうかもわからないが、身堂達の家の方角へ先を急いだ。

  しかし、400メートルも歩けば辿り着けるはずの家は、何十分歩いても見つけることはできなかった。両脇を背の高い竹林に挟まれた心細い幅の道が延々と続いているだけだ。そのくせ、後ろの道は、彼女が進む度に鬱蒼とした竹林に変わってしまっていた。
  ずっと、同じ景色が続くので、有理は同じ場所をぐるぐる回っているような錯覚に陥っていた。彼女は焦っていた。時刻さえもはっきりとしないが、夕暮れは間近ではないだろうか。

  彼女がそう思った瞬間、辺りが急に暗くなり、一瞬のうちに暗闇へと変化した。
  「そんな…」
  絶望のあまり、声が漏れた。しかし、その直後に有理は、今居るところからそう遠くない場所に、僥倖ともいえる明かりを見つけた。
  「ああ灯だ!」
  見たままの直截的な言葉が口からでた。暗闇になったことで、逆に人のいそうな場所を見つける契機となったのだ。そして、明かりの方に無我夢中で進んでいった。幸いにも道があった。

  ―――イタッ!
  左手に鋭い痛みを感じた。すがる思いで、定かではない道を小走りに進んでいたため、竹藪のどこかに手を当ててしまったらしい。立ち止まって痛むところを確認したいが、暗くてよく見えなかった。諦めて彼女は明かりの方へ向かった。

  明かりの源は、一軒の古びた木造の民家だった。
  見慣れた冠木門が彼女の前に現れたが、それがなぜ見覚えがあるのかわからなかった。門の奧、広い内庭の向こうに見える平屋の家には、格子戸から灯りが漏れている。

  有理は門をくぐり、恐る恐るその格子戸を開けた。
  「すみません、こんばんは」
  古い造りの家である。以前に見たことがあるような玄関から奧へと伸びている廊下は、しんとして真っ暗だった。廊下の奥に向かって声をかけた。
  「…」
  返事は返ってこなかった。静まり返っていて、耳がキーンとしてしまう。

  しょうがなく勝手にお邪魔しようかと思った時、「はい」という声とともに奧から誰かがでてきた。すたすたとした足取りである。老人の声だった。
  「おばあちゃん!」
  有理は、どっと安堵の溜息をもらした。彼女が住んでいる千里山の自宅の近所に住んでいた老婆だった。しかし、この設楽という名字の老婆は、有理が中学に入る前に亡くなったはずである。生前は、有利と護はこの家の広い庭で随分と遊ばしてもらった記憶がある。懐かしく、愉しかった記憶だ。
  腰上にチャンチャンコを羽織り、もんぺを履いた設楽老婦人は、有理を主人のいる奧の間に案内した。

  「あの、本当に私のことを知りませんか?」
  「うーん、私らはずっとここに住んでおりますけども、人に会ったのはあんたが初めてだしね」
  この設楽老夫婦は、まったく有理のことを知らなかった。
  しかし、確かに設楽のおじいちゃんとおばあちゃんだし、民家も有理の知っているそのままだった。やはり、これは夢の世界だ。自分は長い夢を見ているのだ。彼女は自分にそういいきかせた。

  「お嬢ちゃん、その手どうしたの?」
  老婆が優しく尋ねてきた。
  「これは…」
  そうだ、忘れていた。先刻何かで手を切ってしまったのだ。左手の甲に五センチほど切り傷が走っていて、血が滲み出ていた。意識して見ていると、じくじくと痛みだした。

  もんぺを履いた老婆が救急箱を持ってきて、有理の傷口を消毒し、年寄り特有の小刻みに震える手で包帯を巻いてくれた。鋭い切り口で傷が深いため、少し傷跡が残るかもしれないと、老婆は有理に告げた。

  「外は真っ暗だし、今日はここに泊まっていきなさい」
  家の主人がそういってくれた。
  「すみません。道に迷っちゃって。急に辺りが暗くなってどうしようかと思ったら、この家の明かりが見えて走ってきたんです。あの私、迫水有理といいます」
  彼女はこういってから、聞きたくてしょうがないことを二人に尋ねてみた。
  「あの、ここはどこなんでしょうか。千里山じゃないんですか?」

  わからない、ということだった。老夫婦は確かに自分達のことを設楽という名字だと教えてくれたが、自分達の家が何という場所にあるかは知らなかった。忘れた、というのではなく、地理的な一切の知識がないようだった。
  他のことを尋ねても、この世界のことは何ひとつ老夫婦は知らなかった。閉ざされた時間の止まった世界。有理はこの世界にそんな印象をもち始めた。
  不思議なことに有理が質問を止めた後、老夫婦がテレビをつけて見だした画面は、ザーザーと放送が終了した時のそれだった。老夫婦は、その画面を、あたかも何かの番組がオンエアされているかのように、じっと見ているのだ。有理には、何度見ても、放送が流れていない白と黒の粗い粒子がざらついた画面にしか見えない。

  有理が困惑した表情で座布団の上に三角座りをしていると、暇をもて余していると思ったのか、老人がくわえていた鉈豆煙管を置いて、お手玉をとってきて彼女に手渡した。
  「すみませんな。こんな物しか遊ぶ物がないので、勘弁して下さい」
  老夫婦はとても優しかった。やがて老人は、有理の近くにあった座布団につき、煙管を再び手にとり、やおらきざみタバコを吸い付けて、例の画面をまた見だした。

  有理は、初めて手にするお手玉を二つから始めて、三つまで両手の上で回したが、四つ目は何度チャレンジしても、お手玉をポトリと落としてしまうのだった。畳から拾い上げたお手玉は、老夫人が作ったであろう、毬のようなきれいな色をしている朱色の生地で縫われていた。
  不思議と傷ついた左手は痛まなかった。どうしても、四つ目が続かなくてがんばっていると、老婦人が有理の向いに座ってきて、手本を見せてくれた。

  正座したもんぺの上に乗せられたお手玉五つ全部が老婦人の手の上で回ってしまうと、有理の口元は思わず緩み、手を叩いて、熟練した老婆の手さばきに見とれていた。
  お手玉で遊んだ後、有理は風呂を沸かしてもらって、疲れを落とした。何十キロも歩いた筈なのに、不思議と足の痛みはなかった。
  彼女が風呂から上がると、奧座敷に敷き布団が用意されていて、彼女はすぐさま床つくことにした。この不思議な世界は自分が夢を見ているからであって、その自分がこの世界で眠りにつけば、夢から覚めて現実に戻れることを期待したからだ。
  枕に頭をもたげながら、自分はもうすでに眠っているのだから、眠りにつくことは出来ないのではないかと心配したが、彼女はあっさりと眠ってしまった。
  次に目を覚ます時は、現実の世界になっているよう願う暇もなかった。



  有理の期待は叶えられなかった。
  目を覚ますと、彼女は竹林の中にいた。
  相変わらず、霧が濃い。眠った時は確かに設楽寓で布団に入っていたはずなのだが、いつの間にかシチュエーションは野宿になっていた。

  上を見上げても、厚い霧で太陽の朧げな形さえ見えない。困ったことに、今度は道がなかった。有理は、自分が鬱蒼とした竹林の中にいるのに気がついた。
  今が何時頃なのか、どこにいるのか行くべき方向さえもわからない。辺りを慎重に見回してみたが、設楽寓の影も形もなかった。自然と長嘆息がでるのだった。

  寝転がっている場所から立ち上がると、彼女の肩から何かがすべり落ちるのを感じた。軽い音を立てて、何かが地面に落ちた。彼女が普段着の時にもち歩くポーチだった。財布や手帳などしか入らない小さな物で、通学には使っていない。したがって、今の通学時のブレザー姿には似合わない。
  何と出鱈目な世界だろう。先刻まで彼女は何も持っていなかったのである。中を調べてみると、設楽寓で遊んでいたお手玉だけが入っていた。まだ空腹ではなかったが、有理はせめて握り飯でも入っている方が嬉しいと思った。

  道はないが、彼女は当て所もなく歩き始めた。
  道だ、道を見つけなくては。彼女は方位を定める術もなく、ただ闇雲に歩いていった。しかし、何時間歩いても小径すら見つからず、竹林は情け容赦なく彼女を囲繞にしている。地面に傾斜というものなく、ただ竹の根が浮き出ただけの水平な地面をもつ林が広がっているだけだ。
  そして、動物の陰さえなかった。気温は心地よい程度で、一切の音がどこからも聞こえてこない。風すら吹かないのだ。

  有理が、足取りを止めたのは、気息奄々と二時間も歩いた頃だ。何かの目印になるかもしれないと思い、目の高さにある竹の位置に、石で傷をつけておいたのを見つけたからだった。
  竹の青緑は、わずかながら彼女の苛立ちを緩和していたものの、やはりやるせなくなり、心身ともに疲労困憊して一本のしっかりした竹を背にして座り込んでしまった。
  そしてそのまま、すうっと寝入ってしまった。






       






インターネット小説 『ドリフト・ウッド』4話



       終わらない夢



  意識が朦朧としている。
  誰かが自分の身体を揺すっている。
  まだ眠い、起こさないでいてほしい。

  有理は横になっているままでいたかった。
  しかし、いつまでたっても、誰かの手が自分の身体を優しく揺すり続けている。
  「おねえちゃん、おねえちゃん起きて。ねえ起きて」
  幼女の声がした。どうやら自分の身体をゆすっているのは小さな女の子らしい。有理は、その鈴を鳴らしたような心地よい声をいつまでも聞いていたいと思った。

  「おねえちゃん、おねえちゃんてば」
  微睡みながらその声を聞き入っていたが、彼女は突如起きたい衝動にかられた。そうだ! 夢の世界はどうなったのだ。自分はまた眠ってしまったのだ。
  がばっ、と有理は上布団を払いのけた。彼女はベッドの上にいた。おかしい、自分は竹林の中にいたはずだ。

  周囲を見渡すと、歓喜の気持ちになった。知らない部屋だが、どうやら人家の中らしい。そう思ったのも束の間で、誰かが自分の手をぐいぐいと引っ張った。
  5才くらいの人形のような真っ白な肌をした幼女が彼女の腕を引っ張っていた。
  「おねえちゃん、おかあさんが朝ごはん食べようって」
  少し舌足らずの口調で幼女はいった。
  白のフリルがついた薄いブルーのワンピースを着たその幼女は、有理の手を引いて彼女の部屋からでて、台所へと階段を元気よく駆け下りていく。

  階段を下りたところに台所があり、幼女の両親らしき二人がいた。食卓の上には朝食の用意がしてあった。
  「あら、おはよう。朝御飯ができたから食べて。綾はお姉ちゃんの邪魔になるから、こっちにきて食べなさい」
  と、母親らしき女性が幼女をたしなめる。
  「はーい」
  少女はそういって、テーブルの母親の横に用意された彼女専用の足の長い椅子に、お尻から元気よく腰掛けた。

  その途端、有理はぎょっとした。綾という幼い少女の名前に反応したのだった。有理はまじまじとその幼女の顔を見ると、まさしくそれは身堂に介護されていた村川綾と酷似した顔だった。彼女を若く幼くしていくとこんな感じに間違いない。透けるような色白の肌と透明感が、二人を同一人物だと思わせる確信めいた要因だった。

  よくよく周囲の部屋の造りを見ると、見た覚えがある台所だった。そういえば、2階の部屋も見覚えがある。身堂と村川綾が住んでいる家の内部と同じだ。自分は現実の世界で、その2階の綾の部屋で彼女と手をつないで眠ったはずである。

  ―――これはまだ、夢の世界…。

  部屋の壁、調度類すべてがまだ新しく、色褪せていない。有理は今自分がいる場所が、20年前の村川家であることに気づいた。

  ―――ということは、これまで見てきたシンミも、竹林も、みんな20年前の世界!?

   そんな思索が彼女の脳裏を巡り始めた。すると、自分はタイムスリップしてしまったのか。いや、おかしい。いくら20年前でも、この辺りにはもっと人家はあったはずだ。やはりこれは夢の世界なのだろうか。

  「どうしたの、むずかしい顔をして?」
  少女の母が、有理に声をかける。
  「いえ、何でもないんです。すいません、いただいちゃって」
  その場しのぎの言葉を口にする。これが、村川綾が幼い頃なくなったという彼女の母親か。60年代に流行したボブカットのヘアスタイルをしている違いはあるが、有理が現実の世界で見た綾とそっくりである。同じ遺伝子を受け継いでいることは間違いない。

  「遠慮せずにどんどん食べなさい。育ち盛りなのだから」
  次に父親の方が声をかけてきた。身堂から話を聞いて、先入観があったので、有理は彼を少し前に亡くなった人のイメージで見た。幼なじみの護の美少年然とした顔とも、身堂のようなエキセントリックな二枚目とも違うが、二人と共通した優しいの感じのする、瞳が黒々としたハンサムな容姿をしている。白いシャツを腕まくりしているのが、有理には爽やかそうで印象よく目に映った。

  「本当にどうしたんだい。頭でもいたいのかな?」
  父親がやさしく声をかけてくれる。
  「いえ、ぜんぜん! なんだかちょっと緊張というか恐縮して…」
  有理はその後の言葉が思いつかなかった。結局、朝食を採りながらも、この世界の謎が気になってむずかしい顔をしてしまっていた。

  ―――綾の魂は、父親が死んだ時、一緒に持っていってしまったらしい。

  そう身堂からいわれた言葉が彼女の脳裏に反芻する。この父親なら何か知っているかもしれない。
  そう思った彼女は直接、その父親に尋ねてみることにした。しかし、父親からは設楽寓での回答同様に何もわからないという返事しか返ってこなかった。

  朝食を済ませた後、有理は幼い綾と遊んでやった。設楽寓を離れた以降、携えていたポーチの中に入っていたお手玉を披露するが、やはり四つ目で続かなくなる。
  それでも、「おねえちゃん、すごい!」と幼い綾は大変な興味を抱き、有理の見よう見真似で、馴れない手つきで二つのお手玉で遊び続けた。

  その横で、有理はまたしてもこの世界の正体について考えてしまうのだった。この村川家にいる限り、恐らく危険性がないこともあって、今では半ば、彼女は元の世界に帰還できるのだろうかということより、この世界の謎に興味をもち始めていた。もちろん、心細いことに変わりはなく、護か身堂に側にいてほしかった。

  目の前にいるこの幼い少女は、現実の世界で見た大人の綾の自己逃避をした姿なのだろうか。そして、彼女は心を閉ざし、自分の深層意識の中に逃げ込み、自分が知っている最も愉しかった昔の頃まで年月も年齢も遡ってしまったのでは。そんな想像が芽生え始めていた。

  それから、幼い綾の両親は、一日中家にいて、会社や買い物へとどこかへ出かけることはなかった。つねに微笑みを浮かべていて、自分達の子供に愛情を注いでいるのである。



  そうして、何の変化もなく、早くも2日が過ぎてしまった。
  有理は、現実の世界へ戻れる可能性が薄くなっていく強迫観念に捕らわれていた。この村川家での4日間は平和で心休まる日々ではあったが、決まった人間との会話と、一定の場所をうろうろする単調で退屈な日々でしかなかった。
  家の外に道はなくとも、何度も竹林に足を踏み入れはしたが、危険を感じて遠くへ行こうとは思わなかった。

  しかし、その日の夕食後、有理は思いがけず、はっとさせられるシーンに出くわしてしまった。
  1階にある奥座敷の部屋で、若い母親がギターを弾き始めたのだった。ギターの音を聞くなり、彼女は別の部屋から飛び出すようにして、奥座敷にやってきたのだった。

  綾の母親―――都が、年期の入ったアコーステックギターを抱えて、壁にもたれかかるように座っている。そのすぐ側で幼い綾が、母親が弾くギターを聴き、そしてそのよく動く両手の指の動きを見て楽しんでいる。
  都の卓越した演奏技術は、楽器に疎い有理でもはっきりとわかるものだった。音色に表情があり、音量に抑揚があり、絶妙の表現力をもったギターサウンドが、いともたやすく彼女の指からギターへと伝わり、スチール弦とホールから響いてくる。

  たくさんのトーンが重なりあう複雑なメロディーなのだが、主旋律になる音をはっきり弾いているので、スムーズに演奏が流れていく感じだ。身堂の演奏を何度も見聞きしている有理だが、そのギターと弦の性質を熟知したような滑らかで力強いつま弾き方を目の当たりにすると、明らかに都の方が演奏技術のレベルが高いことがわかる。

  ―――これが、身堂がいっていたロストテクニック(失われた技巧)というものなのか。

  一曲を聴いただけで、有理はそう思った。
  都は、自分の娘と有理に聞かせるように、立て続けに自分の作曲したギター曲を演奏した。その姿を見ていると、有理は自分と同じ人間なのに、こうも突出した才能と技術をもった人間がいるのが不思議な気持ちになった。
  その姿と音楽にしばらくうっとりしていた有理だが、大事なことを思い出した。

  そう! そうだ!
 私はこの曲を身堂さんに伝えなければならない。元の世界にこの曲をもって帰らねばならない。彼女はこの世界に来て、初めて使命感を感じるとともに、心の中で思いきりそう叫んだのだった。
  「お願いです。今弾かれていた曲を、曲の楽譜を私に下さい!」
  突然の有理の言葉に、都は少し驚いたような反応を見せたが、こう言葉を返した。
  「ごめんなさい、譜面はないの。私が作った曲だから全部頭の中に入っているの」
  意外な返事が耳に入ってきた。
  「えっ、じゃあ…カセットテープに録音するか、楽譜を書いてもらえないでしょうか。お願いです」

  有理は我ながら機転の効いたことをいったと思った。しかし、すぐ後に、カセットテープにしても楽譜にしても、これが夢の世界のことならば現実の世界へは到底もっていけないことに気づいた。一体、どうすれば曲を身堂に伝えることができるのだ。
  「あっ、やっぱり結構です。変なこといってすみませんでした」

  その後、都は「いいのよ」といい、またギターを弾き始めた。そしてその曲こそ、有理が身堂に聴かされた、意志を失った綾が反応する唯一の曲だった。
  「実は、この曲だけは楽譜があるの」
  曲の演奏を途中で止め、都はこう話した。
  「しばらく旅行とかにいって、ギターに触れない時があるでしょ? 1週間もしないうちに、思い通りに指が動くかなくなったり、メロディーを忘れてしまったり。それが恐いのよ。我ながらこの曲はお気に入りの一曲だから。
  緩やかな大きな川に流れる木をイメージして作ったので、"漂木"という曲名なのよ」

  そういった都は、ギターケースの内側に貼られたトリムのちょうど内角に当たる部分の隙間を見つけてトリムをめくり上げ、鉛筆で書いたであろう、手書きの楽譜をチラリと有理に見せた。
  「別に隠している訳じゃないけど、こうしておくと安心でしょ?」
  と都は尋ねるようにいう。彼女は折り畳んでしまっていた手書きの楽譜を開いて有理に手渡した。
  その楽譜を見終わった有理が残念そうに返すと、都は元通り丁寧に折り畳み、再びギターケースの元の場所にしまい込むのだった。そして途中だった演奏を再開し、自分の作った曲を最後まで弾いた。

  有理が気がつくと、隣に自分の母親の演奏に心地よく耳を傾けている幼い綾がいた。演奏が終わると彼女は、すぐさま立ち上がりどこかへいってしまう。廊下を走り、ドタドタと二階へ駆け上がる音がしたので、自分の部屋へ戻ったようだった。

  すると、1分もしないうちに幼い綾は、有理と都がいる1階の座敷へと戻ってきた。
  「ねえ、おねえちゃん、これみて」
  そういって、有理に丸めた画用紙を手渡す。それを展げると、寂しく憂いのある女性の横顔が繊細なタッチの鉛筆で描かれていた。有理にはそれが、現実の世界の綾だとすぐわかった。それに、このタッチには見覚えがあった。

  「綾が大きくなったら、こんな風になるの」と、幼女がいう。
  「これ、どうしたの?」と、有理は尋ねた。
  「えーとね、お絵描きのおにいちゃんに描いてもらったの」
  「どんな人、名前は?」
  有理は、せかすように訊いた。
  「シンていうおにいちゃん」

  やはり! 身堂が描いたものだった。彼もこの世界にいるのだ。そして、この少女にこの絵を描いて渡したのだ。綾が自己逃避をして、幼い子供に戻っても、紳のことを忘れたわけではなかったのだ。

  「ねえ、綾ちゃん。その人どこに行ったか知らない? その人に会いたいの」
  「おねえちゃんもお絵描きしてもらうの?」
  「その人、お姉ちゃんの知り合いなの。どうしても会わなきゃ」

  しかし、幼い綾の返事は、わからないということだった。以前この家にやってきて、いつの間にかいなくなったという。不思議だったのは、都や父親に聞いても紳の存在すら知らないことだった。有理は、紳を探したくてしょうがなかったが、道さえないこの家から出ていくことはできなかった。
  現実の世界へ戻れる希望がまったくない有理は、ふたたび自失呆然となって落ち込むこととなった。






      






インターネット小説 『ドリフト・ウッド』最終話



       都からの贈り物



  小さなダークブルーの車に乗って身堂が有理のもとへ訪れたのは、都のギター演奏を聴いた翌朝のことだった。

  「きみが呼んだから、きたんだ」
  と、身堂は素っ気なく有理にいった。その不可思議なセリフを、この世界に慣れ始めた有理は何とはなしに自然な道理のように受け止めた。

  朝靄が漂う村川宅の前で、二人は対峙するように立ったまま話を続けた。身堂はタバコを吸いながら、この摩訶不思議な世界についての有理の疑問に応えてくれた。
  「そう、きみが想像しているように、これは綾の潜在意識…夢の世界だろう。あいつの都合のいい、最も幸せだった頃のイメージで時間の流れが止まってしまっているパラレルワールドといったところかもな」
  「やっぱり!」
  有理は相槌を打っていった。

  「おれは、きみよりずっと前にこの世界に来た。いや、いた、という方が適切かもしれない。
  ここでは年月の経過がない。もうどれくらいの昼と夜を迎えたかわからない。恐らく、現実の世界で綾が心を閉ざして、この世界に閉じこもった時からここにいるんだろう。きみの世界では5年前、ということになる、な…」
  少し逡巡しながら、身堂は有理に話をつづけた。その口調は、わずかながら生気が感じられない。この身堂は、あくまで綾の世界でキャラクター付けされた人間だからなのか、と有理は直感的に思った。そういえば、現実の世界の身堂と比べて少し若いかもしれない、と有理は彼の顔つきを見て思った。
  一抹の不安として、自分が冥府の世界に来てしまったのではないかと懸念していた有理は、わずかに安堵しながら、現実の世界でこの5年、身堂と綾がどのように暮らしているかについて、駆け足気味に彼に話した。

  「残念ながら、この世界のおれは、きみがいうように、ギターを弾くことができない。5年前の綾の情報がそのまま反映されただけの人間なのだから。この車もそうだ。二人の思い出が詰まっているから、おれとともにこの世界にあるんだろう」
  身堂は二人の後方にある、自分が乗ってきた小さな車を指さしながらいった。その車は、現実の村川宅のガレージに止まっているダークブルーの車だった。

  「あの…」
  ためらいがちに有理は唇を動かした。そして、自分がいうべきことを彼に伝えた。
  「現実の世界の身堂さんには迷いがあります。5年間、綾さんの魂を呼び戻そうとしていながら、心のどこかでこのままにしておこう、という気持ちの葛藤があるといっていました。自分は綾に見捨てられたのかもしれない、といっていました。綾さんが身堂さんを本当に必要としていたなら、お父さんが亡くなったからといって、精神をどこかに逃避させてしまうことはないだろうからって」
  有理の話を、身堂はだまって聞いていた。
  「私もこの世界に来てしばらく経ってから、そう身堂さんにいわれたことが、その通りだと思い始めていました。綾さんは、やっぱり両親と一緒の方が幸せなんだと。魂を呼び戻さない方がいいのではないかと。でも! この世界で、身堂さんに会って迷いは消えました。身堂さんはやっぱり、綾さんに必要とされていたんだわ。たとえ夢の世界に心が逃げてしまっていても!」
 有理はやや興奮しながら、感情的に言葉を発した。

  「…」
  綾の夢の中の身堂は返す言葉がないのか、ただ黙っていた。
  「私は、現実の世界に帰らなければならない。帰ってこのことを伝えないと。でも、どうやったら…。帰りたくても、帰れない…」
  現実の世界では、何日経っているのだろうか。お父さんとお母さん、護や身堂は心配していないだろうか。有理は、齢いくばくもない17歳の女子高生らしい、自己に対する憐憫の情が急激に沸いてくるのだった。やや自分の顔が泣き出しそうになっているのがわかった。

  「おれはそのために来た」
  と、身堂はポツリといった。その顔には穏やかな笑みを浮かべている。
  「現実の世界へきみを返す」
  「えっ!?」
  有理は、一瞬自分の耳を疑った。

  「さあ、乗って!」
  身堂のいわれるままに、有理はその小さな車の助手席に座り込んだ。途端、軽自動車サイズとは思えない、図太い排気音が辺りに響いた。
  そして、緩やかな加速のショックとともに、二人を乗せた車が前へ滑りだす。前方は、いつの間にかこの車が通るための道が拓けていた。

  鬱蒼とした竹林のどこをどう抜けたかわからないが、いつの間にか車は、例の新御堂筋線へと出ていた。
  相変わらずうっすらとしたガスがかかっており、遠方は見えない。
  「おれや綾の家族、そしてこの車も、綾の記憶の一部としてこの世界で存在するものだから、ここから出ていくことはできないが、有理、きみは違う。これは、綾の夢の中であると同時に、きみが眠っている夢の世界でもあるということを認識してほしい。
  きみは現実の世界に戻るべき存在なんだ。そして、綾の魂も…」
  少しシフトショックを感じるような運転をしながら、身堂は有理に話しかけた。

  車は新御堂筋線を南へ―――緑地公園の辺りから江坂の方へと進んでいた。わずかながら下り気味になった道が、二人を乗せた車に加速をつけていたが、視界が悪いため、身堂は恐る恐る運転しているといった感じだった。
  すると1分もしないうちに、身堂は車を停めた。

  「着いた。ここがこの世界の果てだ」
  彼に従って、有理も車を降りた。車から10メートルも歩くと、道がなくなっていた。
  二人が立っている場所は、切り立った崖の上だった。有理が真下をよく見ると、かなり下の方で大きな川が流れているのが見えた。どうやら、川の流れる音が聞こえないぐらい深い谷であるらしかった。

  「この谷の向こう側が現実の世界だ。ほら、見えるだろう」
  そういって身堂は、崖の前方を指さした。すると妙なことに、霧がかった大気は徐々に晴れ間を見せ、視界をよくしていくのだった。
  彼の指さす先に有理が見たものは、まぎれもなく現実の世界の展望だった。

  「…あれは、江坂の街だわ」
  自然と言葉が漏れた。それは、こちらの世界のようにセピアがかった世界観ではなく、まったく現実然とした、有理がこれまで見てきた風景そのものがそこにあった。
  「ジェットコースターは好き、嫌い?」
  身堂が問いかけた。
  「…苦手ですけど、どうしてそんなことを聞くんですか?」
  「有理が現実の世界に帰るには、あちら側に行かなくてはいけない。しかし、生身の人間ではこの谷を飛び越えられない。でも、こいつに乗ってフルスピードでジャンプすれば、きっと向こうに行ける」

  突拍子もないことをいう! と有理は思った。しかし、よくよく考えてみると他に手だてはないのである。彼女は眼前の深い谷を見て、ごくっと唾を飲み込んだ。
  「だ、大丈夫です。目を瞑っていますから!」
  二人は再び小さな車に乗り込んで、来た道を戻った。500メートルほど北上したところで、身堂はキキキキキッと車をUターンさせた。一端、車を停止させ、有理に別れを告げた。

  「有理がこの世界に来たのは何かの運命だと思う。現実の世界のおれが、護やきみと出会ったのもそうだろう。待っていた"時"が来たのかもしれない…。有理が元の世界へ帰ることで、現実の綾の身に変化が起こる気がしてならない」
  その陰のある表情と口調は、現実世界の身堂とまったく変わりなかった。有理は、現実の世界の身堂と喋っているのと錯覚してしまっていた。

  「でも、これで私が元の世界に戻って、かりに綾さんの魂が元に戻ったら、この世界はどうなるの?」
  「皆、消えてなくなるだろうな。それでいいんだ。現実の世界に戻ったら、本当のおれに伝えてほしい。遠慮せず、綾の魂を戻してほしいと」
  「…わかりました」
  有理は唯々諾々とした返事をするほかなかった。

  そして間髪を入れずに、身堂はニュートラルギアをファーストへ入れ、車を前に出した。
  アクセルを床まで目一杯踏み込み、エンジンを限界まで回す。タコメーターの針がレッドゾーンにかかると、OHV式エンジンのプッシュロッドがカムを押し上げる特有のシューンと鳴る高音まで、現実の通りであるのを有理は知らない。身堂はレッドゾーンに入る度に次のギアへシフトアップしていった。

  不思議なことに、いつの間にかこの世界全体を覆っていたガスは雲散し、視界が開けていた。坂道を転がるようなスピードで疾走する二人の車は、新御堂筋線に沿って南へ下り、ぐんぐんと例の谷に近づいていった。

  見えた! と思った時、有理には、谷とその前方にある江坂の街並みがビデオのスローモーションのようにゆっくりと目に映り始める感覚にとらわれた。
  彼女は、死にゆく人間がそれまでの人生を走馬燈のように想起する現象が自分に起きているのではないかと心配になった。つい右隣を見ると、いつもの凛々しい顔のまま眼前を見据えてハンドルを握る身堂がいた。とにかく彼を信じよう、そう思った。

  やがて、道の裂け目が迫ったかと思うと、彼女は怖さのあまり力一杯目を瞑った。
  両手は胸の前でシートベルを握りしめている! 全身のアドレナリンが分泌し、額と手の平に汗をかいているのが手に取るようにわかった。
  そのくせ、二の腕から手首にかけては鳥肌が立っているのだ。夢の中のこととはいえ、現実に感じる恐怖と何ら変わりがなかった。
  刹那、世界中をひっくり返したような爆音が車内に響いた。車が崖の切れ目を越えて、ホイールが空転し、抵抗を失ったエンジンが荒れ狂う音だった。

  ガクン!! 一瞬にして大地の底がなくなった感覚が車に乗っていてもわかった。
  それでも彼女は、目を見開くことができなかった。
  次の瞬間、音という音がすべて消失し、一切の感覚が失せ、目を閉じた暗闇の中で有理は時間が止まったような感覚に陥った。それが何秒も、何分も彼女の中で続いた。
  「まだなのっ!!」
  と、必死な表情の有理が心の中で叫んだ時、首がもげ落ちるほどの急激なショックが彼女の全身を襲った。
  ドガガガガガガッ―――という、車体がどこかぶつかったような轟音が延々と響き続けた。

  彼女は思わず悲鳴を上げていた。



  気がつくと、有理を取り囲む周りのシーンは、違うものになっていた。

  ―――また、布団の中だ。

  じっとりと背中に寝汗をかいていた。
  敷き布団と毛布の間で、階段を上ろうとして踏み外したような記憶と不自然なショックの感覚が身体に残っていた。
  彼女の隣には、"自分と手をつないだまま"の、栗色の髪の長い美しい女性が目を閉じ、静かに眠っていた。
  大人の綾さんだ!
  有理は自分の目を疑いつつも、歓喜に身を震わせ、愁眉を開いた。

  自分は、現実の世界に戻ってきたのだ。あの長い夢の世界から帰還できたのだ。どうやら、あの着地の時のショックで目が覚めたらしかった。
  二人が眠っている部屋には、カーテン越しに緩やかな朝の陽が差し込んでいた。自然と右手のパジャマの部分で、額の汗を拭っていた。あの世界での時間経過とはまったく連動せず、どうやら身堂達と話し込んだ次の日の朝らしかった。うんざりするほど鮮明で長い夢だったが、彼女は普通に眠っていたようだ。

  「あっ、そうだ!」

  有理は、少し呆然としていたが、夢の続きを思いだし、その瞳をキョロキョロさせながら少し考えた後、布団から跳ね上がるようにガバッと起きあがった。そして、パジャマ姿のまま、身堂と護が寝ている1階の部屋へとなだれ込んだ。

  早朝なのか、二人はまだ寝息をたてていた。彼女は慌てて、身堂を揺すり起こした。
  「身堂さん、起きて!」
  寝覚めのいい身堂は、すぐさま目を覚ました。
  「ギターのケース! あのギターのケースはどこにあるの!」
  「ギターケース? 朝からなんだ」
  寝ぼけまなこの紳は少し鈍く反応した。
  「何でもいいから、起きてギターのケースをだして!」

  身堂はいわれるままに起きて、綾の母親が愛用していたギターが収められているギターケースを押入から取り出してやった。
  有理はすぐに、そのギターケースを開けて、中のギターを取り出す。

  彼女には確信があった。

  そうだ、古くなってはいるが、夢で見たギターそれにギターケースと同じだ。その胸の鼓動を大きくしながら、彼女は、ギターケースの底になっている部分のトリムの隙間に指を入れてはがしにかかった。

  ―――必ずあるはずだ!

  有理には確信があった。
  ギターケース内側の木とトリムの間には、綾の母、若き頃の都がしまい込んだ『ドリフトウッド(漂木)』という題名が記された手書きの楽譜が挟まれていた。その白地だったはずの紙は完全に黄変し、ところどころ茶色の斑点ができているが、まさしくそれは有理が夢の中で見たものだった。
  有理はそれを、宝石よりも大事な物のように身堂に手渡した。
  そして熟睡している護を起こした後、彼女は夢で見た不思議な体験の一部始終を二人に打ち明けた。



  その後、身堂と護はまる1日をかけてその楽譜の曲を完全にコピーし、有理がいる目の前で、二人の同時演奏によって綾の意識を呼び戻すことに成功した。

  魂が還ってきた綾の最初の言葉―――
  「シン… 永い夢をみていたわ…」
  ―――を聞いた時、普段人前であまり感情をださない身堂が、彼女をじっと見ながら咽の奥に声を詰まらせて、両の瞳からポロポロと大きな涙をこぼし続けていた。
  それを側で見ていた有理と護の二人ももらい泣きをしながら、苦労してきた身堂と綾の人生がこれから始まるのだと感じずにはいられなかった。

  有理はこの瞬間、夢の中で出会った人々や、あの世界そのものが消滅してしまったことを、複雑な気持ちで受け止めていた。
  そして彼女は今回の出来事について、このように感じていた。
  心を眠りの中に閉ざし続けている綾を、不憫に思った天国の両親が彼女を救うために、自分を綾の夢の中へと誘ったのだと…。

  それ以降、身堂は5年間鍛錬し続けてきたギターをきっぱりと辞めてしまった。
  その代わり、二人が住む家には、綾が弾くギターの音色がよく響きわたっていた。
  その音色をいつも聴いていたのは、その家のガレージに停められたダークブルーの小さな車だった。その二つの丸いヘッドライトは、あたかも生きているように、二人をずっと見守ってきた責務を果たしたかのような表情を称えているのだった。